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医療企業分析アカデミー

第56講 スイッチングコストとは何か?――顧客が離れにくい医療企業の競争優位を読み解く

JMEI 医療企業分析アカデミー 第56講 顧客が離れにくい医療企業の競争優位を読み解く

はじめに

こんにちは。日本医療企業研究所(JMEI)です。

前回の第55講では、「価格決定力(Pricing Power)」について学びました。価格を引き上げても顧客が離れない企業がある一方で、価格を少し引き上げただけで、顧客が競合企業へ移ってしまう企業もあります。この違いを生み出す要因として、製品の独自性、ブランド力、代替製品の少なさ、そしてスイッチングコストを取り上げました。今回は、そのスイッチングコストについて詳しく学びます。

例えば、ある病院が電子カルテを導入したとします。導入費用は3,000万円。医師や看護師への研修も実施しました。過去の診療データも移行しました。院内の業務手順も、新しい電子カルテに合わせて変更しました。それから5年が経過したある日、競合企業が、現在より20%安い電子カルテを提案してきました。病院は、すぐに乗り換えるでしょうか。

おそらく、価格だけでは判断しないでしょう。新しいシステムへのデータ移行、職員研修、診療業務への影響、システム停止のリスクなど、考えなければならない問題があるからです。つまり、顧客が他社製品へ切り替える際には、製品価格以外にもさまざまな負担が発生します。この負担を、スイッチングコスト(Switching Cost)と呼びます。

スイッチングコストは、医療企業の競争優位を考えるうえで非常に重要です。特に、医療機器、診断装置、電子カルテ、医療DX、病院情報システムなどでは、企業の長期的な収益構造に大きく関係します。今回は、スイッチングコストの基本から、顧客継続率、解約率、Installed Base、顧客生涯価値まで、初心者にも分かるように解説します。

スイッチングコストとは何か

スイッチングコストとは、顧客が現在使用している製品やサービスから、別の企業の製品やサービスへ切り替える際に発生する費用や負担のことです。

例えば、家庭で使うボールペンを考えてみましょう。100円のボールペンを使っている人が、別のメーカーの100円のボールペンへ変更する場合、切り替えに大きな負担はありません。ところが、病院の電子カルテは違います。別の電子カルテへ変更するには、データ移行や職員研修が必要です。場合によっては、院内の業務手順も変更しなければなりません。このように、製品やサービスによって、切り替えの難しさは大きく異なります。そして、切り替えの負担が大きいほど、顧客は現在の製品を使い続ける可能性が高くなります。これがスイッチングコストの基本的な考え方です。

スイッチングコストには5つの種類がある

スイッチングコストは、単純な金銭的負担だけではありません。JMEIでは、医療企業を分析するとき、次の5つに分けて考えます。

一つ目は、金銭的コストです。新しい製品やシステムを導入するための費用で、医療機器の買い替え費用や、新しい電子カルテの導入費用などが該当します。

二つ目は、時間的コストです。切り替えに必要な時間のことで、医療従事者への研修や、システム移行の準備などが該当します。

三つ目は、業務変更コストです。新しい製品に合わせて、業務手順を変更する負担のことです。医療機関では、診療や検査の手順が複雑なため、この負担が大きくなることがあります。

四つ目は、技術的コストです。既存システムとの互換性や、データ移行などに関する問題で、特に医療情報システムでは重要です。

五つ目は、心理的・組織的コストです。使い慣れた製品を変更することへの不安や、組織内での合意形成に伴う負担のことです。医療では安全性が重視されるため、新しい製品への変更に慎重になることがあります。

これらの負担が重なることで、顧客は現在の製品を使い続ける場合があります。

なぜ医療産業ではスイッチングコストが重要なのか

医療産業には、一般的な消費財とは異なる特徴があります。それは、製品やシステムの変更が、医療の安全性や継続性に影響する可能性があることです。

例えば、検査装置を変更する場合には、新しい装置の測定性能を確認する必要があります。検査手順も変更するかもしれません。医療従事者への教育も必要です。検査結果の比較可能性についても、確認が必要になる場合があります。単に価格が安いという理由だけで、すぐに変更できるわけではありません。

また、電子カルテを変更する場合には、患者情報の正確な移行が重要です。データ移行に問題があれば、診療に影響する可能性があります。したがって、医療産業では、製品の切り替えに伴う負担が大きくなる場合があります。この特徴が、医療企業の競争優位につながることがあるのです。

スイッチングコストと競争優位の関係

ここで、競争優位との関係を考えてみましょう。ある企業が、病院向けの検査装置を販売しています。その装置は、病院の検査業務に深く組み込まれています。検査技師は操作方法に習熟しており、検査データは病院の情報システムと連携しています。専用試薬も継続的に使用されています。

この状態で、競合企業が新しい装置を提案してきました。価格は10%安い。しかし、病院側には切り替えに伴う負担があります。その結果、現在の装置を使い続けるという判断が行われるかもしれません。このように、スイッチングコストは、既存企業が顧客を維持するための競争上の強みになる場合があります。

ただし、注意点があります。顧客が離れにくいことと、顧客が満足していることは同じではありません。この違いは、後ほど詳しく説明します。

Installed Baseとは何か

ここで、新しい用語を学びましょう。Installed Base(設置済み基盤・導入済み基盤)です。Installed Baseとは、すでに顧客のもとで使用されている製品やシステムの基盤を意味します。

例えば、ある診断企業が、全国の病院に2,000台の検査装置を設置しているとします。この2,000台がInstalled Baseです。重要なのは、装置を販売して終わりではないことです。検査装置が使用されるたびに、試薬や消耗品が必要になる場合があります。さらに、保守契約やソフトウェア更新などの収益が発生することもあります。つまり、Installed Baseが大きい企業は、継続的な収益を得られる可能性があります。

Installed Baseと継続収益

具体的な数字で考えてみましょう。架空の診断企業、Diagnostics A社です。検査装置の設置台数は2,000台、1台当たり年間試薬売上は150万円とします。この場合、年間試薬売上は、2,000台×150万円=30億円となります。

この30億円は、すでに設置されている装置から生まれる売上です。もちろん、実際には検査件数や稼働状況によって変動します。しかし、新しい装置を毎年販売しなくても、既存装置から試薬売上が発生する仕組みがあります。このような事業モデルでは、Installed Baseが重要な経営指標になります。

Installed Baseが大きければ安心なのか

必ずしもそうではありません。例えば、2,000台の装置が設置されていても、実際には半分しか稼働していない場合があります。また、競合企業の新しい検査技術によって、既存装置の利用が減少する可能性もあります。さらに、装置が老朽化して更新時期を迎える場合もあります。

そのため、Installed Baseを分析するときは、単純な設置台数だけではなく、稼働率、検査件数、試薬使用量、装置の更新率、顧客継続率などを確認する必要があります。JMEIでは、Installed Baseを「将来の収益を生み出す可能性のある顧客基盤」として評価します。ただし、設置台数がそのまま将来の利益を保証するわけではありません。

ケーススタディ① 診断企業の顧客維持

架空の診断企業、Diagnostics B社を考えます。現在の設置台数は2,000台、1台当たり年間試薬売上は150万円で、年間試薬売上は30億円です。ここで、翌年の顧客維持率を2つのシナリオで比較します。

シナリオAは、維持率95%です。継続使用される装置は、2,000台×95%=1,900台。年間試薬売上は、1,900台×150万円=28.5億円です。

シナリオBは、維持率85%です。継続使用される装置は、2,000台×85%=1,700台。年間試薬売上は、1,700台×150万円=25.5億円です。

両者の差は3億円です。維持率が10ポイント違うだけで、年間試薬売上に3億円の差が生まれました。この例では、新規設置や既存顧客の検査件数変化などを考慮していません。それでも、顧客維持率が継続収益に与える影響を理解できます。

顧客継続率とは何か

次に、顧客継続率を学びます。顧客継続率とは、一定期間の開始時点に存在した顧客のうち、期間終了時点でも契約や利用を継続している顧客の割合です。英語では、Customer Retention Rateと呼ばれます。

例えば、ある医療DX企業が、年初に1,000施設と契約していたとします。1年間で50施設が解約しました。残った顧客は950施設です。顧客継続率は、950施設÷1,000施設×100=95%となります。この場合、年間顧客継続率は95%です。なお、新規契約した施設は、この計算には含めません。既存顧客がどれくらい残ったかを見るためです。

解約率とは何か

顧客継続率と対になる指標が、解約率(Churn Rate)です。解約率とは、一定期間に契約を終了した顧客の割合です。先ほどの例では、1,000施設のうち50施設が解約しました。解約率は、50施設÷1,000施設×100=5%です。つまり、顧客継続率95%、解約率5%となります。

このように、同じ顧客集団と期間を対象にすれば、顧客継続率と解約率は合計100%になります。ただし、実際の企業では、顧客数を基準とする解約率と、売上高を基準とする解約率が使い分けられることがあります。そのため、企業間比較では指標の定義を確認することが重要です。

解約率が小さいことの重要性

ここで、2つの医療SaaS企業を比較してみましょう。どちらも年初の契約施設数は1,000施設です。Medical DX C社の年間解約率は3%で、年間解約施設数は30施設。Medical DX D社の年間解約率は12%で、年間解約施設数は120施設です。年間契約額は、どちらも1施設当たり120万円とします。

C社が失う年間契約売上は、30施設×120万円=3,600万円。D社が失う年間契約売上は、120施設×120万円=1億4,400万円です。両社の差は1億800万円です。解約率が違うだけで、維持できる契約売上に大きな差が生まれます。

ただし、これは解約した施設の年間契約額を用いた比較です。実際の当期売上への影響は、解約時期や契約条件によって変わります。

新規契約が増えていても安心できない

ここで重要な問題があります。ある医療DX企業が、年間200施設の新規契約を獲得したとします。一見すると、成長しているように見えます。しかし、同じ期間に180施設が解約していたらどうでしょうか。新規契約200施設、解約180施設で、純増は20施設です。

つまり、営業活動によって多くの顧客を獲得していても、既存顧客が大量に離れていれば、顧客基盤はあまり拡大しません。さらに、新規顧客の獲得には営業費用や導入支援費用がかかります。そのため、解約率が高い企業は、成長を維持するために多額の顧客獲得費用が必要になる場合があります。売上成長率だけでは、顧客基盤の健全性を判断できないのです。

顧客獲得コストとは何か

次に、顧客獲得コストを学びましょう。CAC(Customer Acquisition Cost)です。CACとは、新しい顧客を1件獲得するために必要な費用です。

例えば、医療DX企業が年間3億円を営業・マーケティング活動に使用したとします。その結果、新規契約施設を300施設獲得しました。簡略化すると、CAC=3億円÷300施設=100万円です。1施設を獲得するために、平均100万円を使用した計算になります。

実際には、営業担当者の人件費、広告宣伝費、導入前の支援費用など、どこまでをCACに含めるかによって数値は変わります。そのため、企業間比較では定義をそろえる必要があります。

顧客が長く残るほど何が起こるのか

ここで考えてみましょう。ある医療SaaS企業が、新規顧客を獲得するために100万円を使用しました。その顧客から、毎年120万円の契約売上が発生します。契約が1年で終了する場合と、10年間継続する場合では、企業が得る累計売上は大きく異なります。1年間なら120万円、10年間なら1,200万円です。

もちろん、サービス提供費用も発生します。しかし、顧客が長く契約を継続するほど、顧客獲得費用を回収し、その後の利益を積み上げられる可能性があります。ここから、次の重要な概念につながります。

顧客生涯価値とは何か

LTV(Lifetime Value)です。LTVとは、1人または1社の顧客が、取引関係の継続期間を通じて企業にもたらす経済的価値を表す指標です。LTVには複数の計算方法があります。今回は、初心者向けに、年間粗利益を基準とした簡易モデルを使います。

年間顧客単価が120万円、粗利益率が80%、年間解約率が5%とします。年間粗利益は、120万円×80%=96万円です。年間解約率が一定で、毎年同じ確率で顧客が解約すると仮定すると、簡易的なLTVは、年間粗利益÷年間解約率で推計できます。したがって、96万円÷0.05=1,920万円となります。このモデルでは、1顧客当たりのLTVは1,920万円です。

ただし、これは割引率、契約単価の変化、顧客ごとの解約確率の違い、固定費などを考慮していない簡易推計です。実際の企業価値評価では、より詳細な分析が必要です。

LTVとCACを比較する

ここで、CACを使います。顧客獲得コストは300万円、LTVは1,920万円とします。LTV÷CACは、1,920万円÷300万円=6.4倍です。この比率は、顧客獲得の経済性を考える参考になります。

しかし、LTV/CACが高ければ必ず優良企業というわけではありません。LTVが過大に推計されている可能性があります。また、顧客獲得費用を回収するまでに長い時間が必要かもしれません。さらに、医療DXでは導入支援や継続的なサポートに大きな費用がかかる場合があります。そのため、LTV/CACだけではなく、費用回収期間やキャッシュフローも確認する必要があります。

ケーススタディ② 2つの医療SaaS企業

架空の2社を比較します。Medical SaaS E社は、年間顧客単価120万円、粗利益率80%、年間解約率5%、CAC300万円です。簡易LTVは1,920万円で、LTV/CACは6.4倍です。

Medical SaaS F社は、年間顧客単価120万円、粗利益率80%、年間解約率15%、CAC300万円です。簡易LTVは、96万円÷0.15=640万円。LTV/CACは、640万円÷300万円=約2.13倍となります。

両社は、顧客単価も粗利益率も顧客獲得コストも同じです。違うのは解約率で、E社は5%、F社は15%です。その結果、簡易LTVに3倍の差が生まれました。顧客を維持する力が、企業の長期的な収益性に大きく影響することが分かります。

顧客が離れにくい企業は必ず優良企業なのか

ここで、重要な問題を考えましょう。顧客が離れにくい企業は、必ず優良企業なのでしょうか。答えは、必ずしもそうではありません。

例えば、ある病院が電子カルテを使用しています。操作性は悪く、サポート対応も遅く、利用者の満足度は低い。しかし、データ移行が難しいため、他社へ変更できません。この場合、顧客は契約を継続しています。解約率も低いでしょう。しかし、その理由は顧客満足ではありません。切り替えが難しいからです。

この状態は、長期的に安定した競争優位と言えるでしょうか。より優れたシステムが登場し、データ移行が容易になれば、顧客が離れる可能性があります。したがって、顧客継続率だけでは競争優位の質を判断できません。

ロックインと顧客満足の違い

ここで、2つの概念を区別します。ロックイン(Lock-in)とは、顧客が他社へ切り替えることに大きな負担があるため、現在の製品を使い続ける状態です。顧客満足による継続利用とは、製品やサービスの価値が高く、顧客が積極的に使い続けたいと考えている状態です。

どちらも、結果として解約率が低くなる可能性があります。しかし、競争優位の持続性は異なるかもしれません。ロックインだけに依存している企業は、切り替えコストを低下させる技術革新によって、競争優位を失う可能性があります。一方、顧客満足度が高い企業は、切り替えが容易になっても選ばれ続ける可能性があります。JMEIでは、この違いを重視します。

医療DX企業で確認したいこと

医療DX企業を分析するとき、単純な契約施設数だけでは不十分です。例えば、契約施設数が5,000施設ある企業を考えます。この数字だけを見ると、大きな顧客基盤を持っているように見えます。しかし、次のような疑問があります。契約施設は実際にシステムを使用しているのでしょうか。契約更新率は高いのでしょうか。顧客満足度はどうでしょうか。利用機能は増えているのでしょうか。追加サービスの契約は増えているのでしょうか。解約理由は何でしょうか。こうした情報を確認することで、顧客基盤の質を理解できます。

売上継続率という考え方

顧客数の継続率に加えて、売上高を基準とした継続率も重要です。例えば、ある医療DX企業の既存顧客からの年間契約売上が100億円だったとします。翌年、既存顧客の一部が解約し、5億円の売上が失われました。また、一部顧客の契約縮小によって3億円減少しました。一方、既存顧客への追加サービス販売によって12億円増加しました。

この場合、100億円-5億円-3億円+12億円=104億円となります。既存顧客からの売上が、100億円から104億円へ増加しました。このような変化を見る指標が、NRR(Net Revenue Retention:売上継続率)です。

NRRを計算してみよう

基本的な計算式は、NRR=(期首既存顧客売上+追加売上-契約縮小による減収-解約による減収)÷期首既存顧客売上×100です。先ほどの例では、(100億円+12億円-3億円-5億円)÷100億円×100=104%となります。NRRは104%です。

これは、新規顧客からの売上を含めなくても、既存顧客からの売上が4%増加したことを意味します。医療SaaS企業では、こうした既存顧客の売上拡大が重要な成長要因になる場合があります。ただし、NRRの計算方法や開示対象は企業によって異なることがあるため、比較時には定義を確認する必要があります。

NRRが高ければ安心なのか

NRRが100%を超えている企業は、既存顧客からの売上が拡大しています。しかし、ここでも注意が必要です。例えば、少数の大口顧客への追加販売によってNRRが高くなっている一方、多くの小規模顧客が解約している場合があります。そのため、NRRだけでなく、顧客数ベースの解約率、売上高ベースの解約率、顧客単価、大口顧客への依存度なども確認します。

また、NRRが高くても、追加サービスの提供費用が大きければ、利益が十分に増えない可能性があります。企業分析では、顧客継続率、売上継続率、利益率を組み合わせて考える必要があります。

医療機器メーカーのスイッチングコスト

医療機器メーカーでも、スイッチングコストは重要です。例えば、手術支援システムを考えてみましょう。病院が新しいシステムを導入する場合、医師や医療スタッフの教育が必要になります。手術室の設備や運用体制も調整する必要があります。さらに、保守契約や専用器具、消耗品などが関係する場合があります。そのため、導入済みシステムを別のメーカーへ変更するには、一定の負担が発生します。

このような製品では、装置の販売だけでなく、導入後の継続収益が重要になる場合があります。ただし、競合システムが臨床的に優れた価値を提供すれば、病院が切り替えを検討する可能性があります。スイッチングコストは、競争を完全に防ぐものではありません。

ケーススタディ③ 医療機器の導入済み基盤

架空の医療機器メーカー、Medical Device G社を考えます。導入済み装置は500台、1台当たり年間保守契約額は200万円です。年間保守売上は、500台×200万円=10億円です。

ここで、保守契約の継続率が98%だったとします。翌年も契約を継続する装置は490台で、保守売上は、490台×200万円=9.8億円となります。一方、継続率が80%なら、500台×80%=400台で、保守売上は8億円です。継続率の違いによって、保守売上に1.8億円の差が生まれます。このように、医療機器企業では、新規装置販売だけでなく、既存装置から生まれる収益を確認することが重要です。

製薬企業にもスイッチングコストはあるのか

製薬企業でも、治療薬の変更に伴う負担が発生する場合があります。例えば、患者が長期間使用している薬剤を変更する場合です。治療効果の再評価、副作用の確認、用量調整、患者への説明などが必要になることがあります。また、医療機関の採用薬を変更する際には、院内の薬事委員会などによる検討が必要になる場合があります。

ただし、医薬品では、スイッチングコストだけで競争優位を評価することは適切ではありません。臨床的な有効性、安全性、薬価、治療ガイドライン、患者の状態などが重要です。医療上必要な変更を妨げることが、企業の望ましい競争優位であるとは言えません。

病院や介護・福祉施設ではどう考えるか

スイッチングコストは、医療機器や医療DXだけの概念ではありません。病院や介護・福祉施設にも関係します。例えば、ある利用者が長年通っている生活介護事業所を考えます。職員との信頼関係があります。本人の特性を理解した支援体制があります。送迎や日常生活のリズムも確立されています。別の施設へ変更する場合には、新しい環境への適応が必要になるかもしれません。

ただし、ここで重要なのは、利用者が変更しにくいことを経営上の利益として利用することではありません。本人の意思や選択を尊重しながら、質の高いサービスを提供し続けることです。医療・福祉分野では、スイッチングコストを考える際にも、利用者の権利とサービスの質を重視する必要があります。

スイッチングコストが低下する時代

ここからは、将来の企業分析に関係する重要な視点です。技術革新によって、スイッチングコストが低下する場合があります。例えば、医療情報システムです。従来は、システムごとにデータ形式が異なり、他社システムへの移行が難しい場合がありました。しかし、データ標準化や相互運用性が進めば、移行負担が軽減される可能性があります。クラウド技術の進歩も、システム構成や運用方法を変える可能性があります。

つまり、現在は切り替えが難しい製品でも、将来は切り替えやすくなるかもしれません。その場合、スイッチングコストだけに依存していた企業の競争優位は弱まる可能性があります。なお、ここで述べているのは将来の可能性であり、確定した予測ではありません。

スイッチングコストと技術革新

ここで、2つの企業を考えてみましょう。A社は、顧客が他社へ移行しにくい独自仕様のシステムを提供しています。顧客継続率は高いものの、製品改善は遅れています。B社は、データ移行や他社システムとの連携が比較的容易なシステムを提供しています。しかし、操作性や機能改善に優れ、顧客満足度が高い企業です。

現在の顧客継続率は、どちらも95%です。では、5年後はどうでしょうか。データ標準化が進み、システム移行が容易になった場合、A社は顧客を失う可能性があります。一方、B社は、顧客が積極的にサービスを選び続けることで、継続率を維持できるかもしれません。もちろん、実際の結果は競争環境や製品の進化によって異なります。しかし、このケースから重要なことが分かります。スイッチングコストの高さと、競争優位の持続性は必ずしも一致しないのです。

JMEI式「顧客基盤の質」を評価する

JMEIでは、医療企業の顧客基盤を評価するとき、4つの視点を組み合わせます。

第一の視点は、顧客基盤の大きさです。契約施設数、導入装置数、利用医療機関数などを見ます。

第二の視点は、顧客基盤の継続性です。顧客継続率、解約率、契約更新率などを見ます。

第三の視点は、顧客基盤の収益性です。顧客単価、粗利益率、LTV、CACなどを見ます。

第四の視点は、顧客基盤の持続性です。製品満足度、競合製品への切り替え可能性、技術革新への対応力、医療機関との信頼関係などを見ます。

この4つを組み合わせることで、単純な契約数や売上高だけでは分からない企業の競争力が見えてきます。

JMEI式「スイッチングコストを見る15の質問」

実際の企業分析では、次の15項目を確認してみましょう。

1つ目は、顧客は誰か。2つ目は、製品やサービスは顧客の業務にどれくらい組み込まれているか。3つ目は、他社製品へ切り替える際に費用が発生するか。4つ目は、切り替えにどれくらい時間が必要か。5つ目は、職員研修や業務変更が必要か。

6つ目は、データ移行やシステム連携に問題はあるか。7つ目は、医療安全や品質管理上の確認が必要か。8つ目は、Installed Baseはどれくらいあるか。9つ目は、顧客継続率は何%か。10個目は、解約率は何%か。

11個目は、解約理由は何か。12個目は、顧客単価は増加しているか。13個目は、LTVとCACの関係はどうか。14個目は、技術革新によってスイッチングコストが低下する可能性はあるか。15個目は、顧客は切り替えられないから残っているのか、それとも積極的に選び続けているのか。

特に最後の質問は重要です。顧客が離れにくい理由を理解することで、競争優位の質を考えられるようになります。

練習問題

問題1

スイッチングコストとは何でしょうか。

【答え】顧客が現在使用している製品やサービスから、他社製品やサービスへ切り替える際に発生する費用や負担のことです。金銭的負担だけでなく、時間、研修、業務変更、データ移行なども含まれます。

問題2

ある医療DX企業の年初契約施設数は1,000施設でした。1年間で40施設が解約しました。年間解約率はいくらでしょうか。

【答え】4%です。40施設÷1,000施設×100=4%。

問題3

問題2の企業の顧客継続率はいくらでしょうか。

【答え】96%です。100%-4%=96%。

問題4

ある診断企業の検査装置設置台数は1,500台です。1台当たり年間試薬売上は200万円です。年間試薬売上はいくらでしょうか。

【答え】30億円です。1,500台×200万円=30億円。

問題5

ある医療SaaS企業の年間顧客単価は100万円、粗利益率は80%、年間解約率は10%です。簡易LTVはいくらでしょうか。

【答え】800万円です。年間粗利益は、100万円×80%=80万円。簡易LTVは、80万円÷0.10=800万円。

問題6

問題5の企業のCACが200万円だった場合、LTV/CACはいくらでしょうか。

【答え】4倍です。800万円÷200万円=4倍。

問題7

顧客継続率が高ければ、必ず顧客満足度も高いと言えるでしょうか。

【答え】いいえ。スイッチングコストが高いために、顧客が不満を持ちながら契約を継続している場合もあります。

問題8

Installed Baseとは何でしょうか。

【答え】顧客のもとにすでに設置・導入されている製品やシステムの基盤です。診断装置や医療機器などでは、試薬、消耗品、保守サービスなどの継続収益と関係する場合があります。

問題9

既存顧客売上100億円、追加売上10億円、契約縮小による減収3億円、解約による減収7億円の場合、NRRはいくらでしょうか。

【答え】100%です。(100億円+10億円-3億円-7億円)÷100億円×100=100%。

問題10

医療企業のスイッチングコストを評価するとき、最も注意したいことは何でしょうか。

【答え】顧客が離れにくい理由を確認することです。単に切り替えが難しいから契約を継続しているのか、製品やサービスに満足して積極的に利用を続けているのかを区別する必要があります。

総合ケーススタディ――どの医療企業の顧客基盤が最も強いか

最後に、3つの架空企業を比較します。

A Medical Deviceは、医療機器メーカーです。導入済み装置は5,000台、年間顧客継続率は98%で、専用消耗品から継続収益を得ています。ただし、競合企業が新しい技術を開発しています。

B Medical DXは、医療SaaS企業です。契約施設数は3,000施設、年間顧客継続率は95%です。顧客満足度は高く、既存顧客への追加サービス販売も増えており、NRRは110%です。

C Diagnosticsは、診断企業です。検査装置の設置台数は4,000台、年間顧客継続率は99%です。ただし、装置の老朽化が進み、今後数年間で多くの装置が更新時期を迎えます。

この3社を比較すると、どうでしょうか。単純な顧客継続率では、C社が最も高い数字です。しかし、装置更新時期に競合製品へ切り替えられる可能性があります。A社も高い継続率を持っていますが、新技術の登場によって競争環境が変わる可能性があります。B社は継続率では他の2社より低いものの、顧客満足度が高く、既存顧客からの売上も拡大しています。

この情報だけで最も優れた企業を断定することはできません。しかし、B社には、顧客が積極的にサービスを利用し続けている可能性を示す材料があります。一方、A社とC社については、技術革新や装置更新が顧客基盤に与える影響を詳しく確認する必要があります。重要なのは、「現在の顧客継続率」だけでなく、「将来も顧客が継続する理由があるか」を考えることです。

JMEIの視点

JMEIでは、スイッチングコストを医療企業の競争優位を分析するための重要な要素として位置づけます。しかし、スイッチングコストが高いことだけを評価するわけではありません。なぜなら、医療産業では、顧客が簡単に離れられない状況が、必ずしも望ましいとは限らないからです。

例えば、病院の電子カルテを考えてみましょう。データ移行が難しい。他社システムとの連携ができない。契約条件が複雑である。こうした理由によって、病院が特定企業のシステムを使い続けている場合があります。企業にとっては、顧客継続率が高くなる要因かもしれません。しかし、医療機関にとっては、システム改善や業務効率化を妨げる要因になる可能性があります。

一方、顧客が積極的に利用を継続している企業もあります。操作性が優れている。サポートが充実している。業務効率が改善する。医療安全に貢献する。新しい機能が継続的に提供される。こうした価値があるため、顧客が他社へ変更する必要性を感じない企業です。JMEIでは、後者のような企業に注目します。顧客を囲い込むことで成長する企業よりも、顧客に選ばれ続けることで成長する企業。この違いは、長期的な企業分析において重要です。

さらに、医療産業では、技術革新や制度変更によって競争環境が変化します。現在は切り替えが難しいシステムでも、データ標準化や相互運用性の向上によって、将来は移行しやすくなるかもしれません。そのとき、顧客を維持できる企業はどこでしょうか。単に切り替えを難しくしていた企業でしょうか。それとも、顧客に継続的な価値を提供していた企業でしょうか。JMEIでは、顧客基盤の大きさだけではなく、顧客基盤の質と持続性を重視します。

JMEI Medical Insight 医療企業の本当の競争優位は「顧客が離れられないこと」ではなく「離れる理由がないこと」にある

医療企業の競争優位を考えるとき、スイッチングコストは非常に便利な概念です。しかし、この概念には注意すべき点があります。それは、スイッチングコストが高い企業を、無条件に優良企業と評価してしまうことです。

例えば、ある医療情報システム企業が高い顧客継続率を維持しているとします。顧客継続率は99%。一見すると、非常に強い競争優位を持っているように見えます。しかし、顧客が契約を継続している理由は何でしょうか。システムが優れているからでしょうか。それとも、データ移行が難しいからでしょうか。この違いは、企業の将来を考えるうえで非常に重要です。

もし、データ移行が容易になる技術が登場したらどうなるでしょうか。顧客が自由に他社製品を選べるようになったらどうなるでしょうか。そのとき、製品の価値が低い企業は顧客を失う可能性があります。一方、製品の価値が高い企業は、顧客が自由に選択できる環境でも利用を継続してもらえるかもしれません。つまり、スイッチングコストによる競争優位には、質の違いがあるのです。

JMEIでは、これを次のように整理します。第一は、構造的なスイッチングコストです。データ移行、設備変更、研修、業務手順の変更などによって発生する負担です。第二は、価値に基づく継続利用です。製品性能、医療安全、業務効率、サポート品質、臨床的有用性などによって、顧客が積極的に利用を続ける状態です。この2つは、どちらも顧客継続率を高める可能性があります。しかし、長期的な競争優位を考えるときには、後者の重要性が高まります。

特に医療産業では、技術革新が進んでいます。医療AI、クラウド型医療情報システム、診断技術、手術支援技術、遠隔医療。これらの進歩によって、既存製品の優位性が変化する可能性があります。そのような環境では、現在のInstalled Baseが大きいだけでは十分ではありません。導入済み顧客に対して、新しい価値を提供し続ける必要があります。

また、医療企業には、一般的な企業とは異なる社会的責任があります。医療機関がより優れた技術を導入できること。患者が適切な医療を受けられること。医療情報が安全かつ適切に活用されること。こうした価値を損なう形で顧客を囲い込むことは、長期的な信頼を失う要因になり得ます。したがって、JMEIが長期的に評価したいのは、「顧客を逃がさない企業」ではなく、「顧客が使い続けたいと考える企業」です。

顧客が使い続ける。企業に継続収益が生まれる。その収益を研究開発やサービス改善へ再投資する。さらに顧客価値が高まる。この循環が成立すれば、企業の競争優位はより持続的なものになる可能性があります。医療企業分析では、単に契約数や解約率を見るだけでなく、この循環が成立しているかを考えることが重要です。

今回のポイント

第56講で最も覚えてほしいのは、「顧客が離れにくい理由を理解することが、企業の競争優位を理解する第一歩になる」ということです。

スイッチングコストとは、顧客が他社製品へ切り替える際に発生する費用や負担です。医療産業では、データ移行、職員研修、設備変更、医療安全上の確認などによって、スイッチングコストが大きくなる場合があります。そのため、医療機器、診断装置、医療DXなどでは、スイッチングコストが競争優位を支えることがあります。

また、Installed Baseは、継続収益を考えるうえで重要です。導入済み装置や契約施設が多い企業では、試薬、消耗品、保守サービス、継続契約などから収益が発生する場合があります。さらに、顧客継続率と解約率を確認することで、顧客基盤の安定性を考えられます。顧客生涯価値であるLTVと、顧客獲得コストであるCACを比較すれば、顧客獲得の経済性を考えることもできます。

ただし、これらの指標には限界があります。顧客継続率が高いことと、顧客満足度が高いことは同じではありません。スイッチングコストが高いことと、競争優位が永続することも同じではありません。技術革新によって切り替えが容易になれば、競争環境が変わる可能性があります。

だからこそ、企業分析では次の問いを立ててみてください。「この会社の顧客は、なぜ契約を継続しているのか」。そして、もう一つ。「もし明日、他社製品へ簡単に切り替えられるようになっても、顧客はこの会社を選び続けるだろうか」。この2つの問いによって、顧客基盤の本当の強さが見えてきます。

次回予告

第57講 ネットワーク効果とは何か?――利用者が増えるほど強くなる医療企業の競争優位

今回は、スイッチングコストについて学びました。顧客が他社へ切り替えにくい理由、Installed Baseの重要性、顧客継続率と解約率、LTVとCAC。こうした指標を通じて、医療企業の顧客基盤を分析しました。

次回は、競争優位を考えるためのもう一つの重要な概念を学びます。それが、ネットワーク効果(Network Effects)です。ネットワーク効果とは、製品やサービスの利用者が増えることで、他の利用者にとっても、その製品やサービスの価値が高まる現象です。

例えば、医療機関と患者をつなぐ予約プラットフォーム。参加する医療機関が増えると、患者にとって選択肢が増えます。利用する患者が増えると、医療機関にとっても参加する価値が高まる可能性があります。このように、利用者の増加がサービスの価値を高める場合があります。ただし、利用者が増えれば必ずネットワーク効果が生まれるわけではありません。単なる規模の経済や、データ蓄積による改善とは区別する必要があります。医療産業では、個人情報保護、医療安全、制度上の制約なども重要です。

次回は、ネットワーク効果、直接ネットワーク効果、間接ネットワーク効果、医療プラットフォーム、データネットワーク効果、規模の経済との違い、そして、ネットワーク効果が企業の競争優位に与える影響を学びます。第57講では、「この企業は、利用者が増えるほど、なぜ競争力が強くなるのか」という問いから、医療企業の成長構造を読み解いていきます。

JMEI|日本医療企業研究所 医療を変える企業と技術を読み解く。

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